大阪高等裁判所 昭和51年(ネ)943号 判決 1980年9月25日
控訴人 室澤武
<ほか二名>
右控訴人ら三名訴訟代理人弁護士 滝井繁男
藤井勲
八代紀彦
位伯照道
田原睦夫
仲田隆明
平山正和
細川喜子雄
水野武夫
被控訴人 社会福祉法人恩賜財団済生会
右代表者理事 犬丸実
右訴訟代理人弁護士 石井通洋
林藤之輔
中山晴久
高坂敬三
夏住要一郎
主文
本件各控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人らの負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 控訴人ら
1 原判決を取消す。
2 被控訴人は、控訴人室澤武に対し、金二二四二万九九二〇円及び内金二〇〇万円に対する昭和四四年六月一七日から、内金二〇四二万九九二〇円に対する昭和四九年六月二〇日から各完済に至るまで年五分の割合による金員、控訴人室澤昭、同室澤和子に対し、それぞれ金三一五万円及び内金三〇〇万円に対する昭和四四年六月一七日から、内金一五万円に対する昭和四九年六月二〇日から各完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
3 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
4 仮執行の宣言
二 被控訴人
主文同旨
第二当事者双方の主張
当事者双方の主張は、以下のとおり付加、訂正するほか、原判決事実摘示のとおり(ただし、原判決四枚目表一二行目の「後水晶体線維増殖症(以下本症という)」を、「未熟児網膜症(後水晶体線維増殖症ともいう。以下、本症という)」と改める)であるから、これを引用する。
一 控訴人ら
1 原判決五枚目裏五行目から同六枚目裏二行目まで(阿部医師の酸素供給過剰(1)の一部、同(2))を次のとおり改める。
「(2) 控訴人ら主張の注意義務は、当時、小児科医に十分認識されていた。すなわち、昭和四二年まで公けにされ、すべての医師が容易に入手しえた別表(一)1ないし6の文献その他控訴人ら援用の文献によれば、未熟児に対する酸素投与の適応についての知見は、次のとおりであった。
第一は、酸素の過剰投与は本症の原因となるので必要なときに必要最少限の投与をするにとどめるべきであること。
第二に、酸素の投与は呼吸障害があり、チアノーゼがあるものに限るべきで未熟児であるからといってルーテイン(常例)に投与すべきではないこと。
第三に、投与量は右のような必要性のあるときも酸素濃度をせいぜい四〇パーセント以下にすべきこと、但し、四〇パーセントの濃度の酸素を供給しても重篤な症状が改善されないときはさらに高濃度の酸素を供給すべきこと。
第四に、いずれにしても、呼吸障害やチアノーゼが消失すれば速やかに酸素濃度を下げ、呼吸状態が良好でチアノーゼもないものに酸素の補給は不要であること。
第五に、右のような操作のためには、患児の頻回の観察が必要であり、かつ一日数回の酸素濃度の測定も必要である。保育器にはそれぞれちがいがあり流量の管理だけでは不十分である。
このような酸素管理には多くの時間を必要とするが、これにより患児の失明を防ぎ、かつ生存せしめることができる。
もっとも、右の五点のうち、第二、第四はすべての文献に記載されているわけではない。しかし、酸素を必要最少限度にとどめるべきことはすべての文献で強調されている。そして、必要最少限度の酸素の適応を知る具体的な目安として過半の文献はチアノーゼや呼吸障害のあるときのみ酸素を投与すべきものとしているのであり、しかもそのような場合に酸素の投与を限定することに異論のある文献は全くない。
したがって、昭和四二年当時、右のような酸素供給に関する知見は単に学術雑誌に発表されるにとどまらず多くの成書、実務書にのせられ、その知識を得ることは医家には十分可能であった。反面この基準に従わず漫然と酸素を供給しつづければ本症が発生することは十二分に予見可能であり、このような酸素供与をすることは医師としての注意を著しく怠ったことになるというべきである。
(3) ところで、控訴人武の状態は、出生時には特に問題とすべき症状はなくチアノーゼも弱であり、被控訴人病院へ入院した時点においても口唇部、指趾部に弱いチアノーゼがあったほか普通の状態であった。同控訴人の入院後の経過は、全期間を通じ全身チアノーゼはみられず、口唇部や四肢のチアノーゼは、生後二二日目の九月七日(以下、年度を略したものは昭和四二年)に完全に消失し、呼吸数も生後一四日目(八月三〇日)ころからほぼ安定し、呻吟については、「うめき声」があったのは生後二日目まででそれ以後はなく、概ね生後一六日目(九月一日)以降は哺乳力、睡眠も良好で、一般状態もそれ以前の不良からやや良に好転していた。
酸素投与の適応は、全身チアノーゼ、呼吸困難のほか低酸素症であるところ、控訴人武の場合には、生後二日間呻吟があり呼吸困難が認められるから、酸素投与の適応はあったと考えられるが、生後三日目以降は呻吟はみられず、全身チアノーゼや無酸素症もみられないから酸素投与の適応はなかったというべきであり、生後六日目(八月二二日)には被控訴人病院作成の未熟児記録の記載によれば、チアノーゼは「」から「」に減少しているので、少くともこのときには酸素投与を中止すべきであった。まして、生後二二日目(九月七日)にはチアノーゼも完全に消失し、一般状態も好転していたのであるから、それ以後酸素投与を続ける必要性は全くなかったのである。
ところが、阿部医師は、当時、未熟児に対しては、チアノーゼの有無にかかわりなく特発性呼吸障害の予防のためにもすべての場合に酸素を投与すべきものと考えていた。しかし、特発性呼吸障害は、その原因が明らかでなく確実な予防法はないとされているのであって、たんに呼吸障害が発生し、そのために摂取酸素量が不足する場合には、それに対する治療として高濃度の酸素を供給し、少ない呼吸でもそれにより摂取しうる量を増やすことにより、低酸素症を防止することができる。ところで、特発性呼吸障害は酸素濃度が低いことが原因となっているのではないのであるから、高濃度の酸素を供給してもその予防には役立たない。しかも、控訴人武には特発性呼吸障害を示す症状もなかったし、全身状態は前示のとおりであった。しかるに阿部医師は、以上の誤った見解に加え、酸素量は、生下時体重を基準とし、生下時体重に戻るときを減量ないし酸素投与を中止する目安とし濃度四〇パーセント以下の酸素投与を続けるかぎり本症発生の危険はないものであるとの誤った認識のもとに、控訴人武に対し、生後一日目から毎分一・五リットル流量の酸素投与を始め、生後四一日目(九月二六日)に至ってようやくこれを毎分一リットル流量に減じたのみで、さらに一〇月一一日まで前後実に五五日間の長期に亘り漫然と酸素供給を続けた過失により、本症の発生を招き同控訴人を失明するに至らしめた。」
2 原判決六枚目裏三行目から同一一枚目裏一行目までを次のとおり改める。
「(二) 阿部医師及び被控訴人病院の全身管理の懈怠
阿部医師の控訴人武に対する栄養・水分の投与に重大な誤りがあり、そのため同控訴人の体重回復が遅れ一般状態に悪影響を及ぼした。未熟児の体重増加については、古くから統計に基づく標準値のグラフがあり、その代表的なものがいわゆるホルトの曲線であるが、阿部医師は、このホルトの曲線すら知らず、控訴人武の体重増加に関し適切な措置をとらず、同控訴人に与えた栄養の量が標準より極めて少なかったため、その体重増加はホルトの曲線の標準値より大巾な遅れを示し、生下時体重への復帰はほんらい二週間以内でなければならないのに四〇日近くを要した。阿部医師は、酸素投与の目安として生下時体重への復帰を重視していたというのであり、その見解の誤りはさておき、同医師において、酸素投与を必要最少限度にとどめるべきであるとの認識があれば、生下時体重への復帰のため栄養面の配慮をすべきであるのにその配慮がなく、そのため控訴人武の生下時体重への復帰が四〇日近くも遅れ、その間不要な酸素投与が続けられたのである。
また、控訴人武は、かなり長期間低体温が続き、ことに生後三日目から九日目の間は三三度ないし三四度の異常低体温であったが、これに対し阿部医師は実質的にはなんらの処置もとらず不当な温度環境におかれていた。さらに、同控訴人の黄疸は、生後三日目より三〇日目まで続き、その間四日目から一五日目までの間は重症であったが、阿部医師はグロンサン等を投与しただけで本格的な処置は全くしていないし、黄疸の程度を知るイクテロメーターについての知識も欠いていた。
そして、被控訴人病院では、当初一つの保育器に控訴人武とともに他の未熟児を収容するなど全身管理をなおざりにしていたうえ、前示のとおり阿部医師の医学知識には誤りが多く、同医師は、控訴人武の入院中必要な指示もせず看護婦に委せておくなどその無能力と怠慢は著るしく、かかる医師に広範な医療上の裁量を認めることは許さるべきでない。
(三) 阿部医師及び被控訴人病院眼科医の眼科的管理の懈怠
(1) 本症は発病初期(オーエンスの分類による一、二期)の段階であれば適正な酸素濃度を保つとともにビタミンD、E、副腎皮質ホルモン剤、蛋白同化ホルモン剤等を投与することにより、弱視に陥ることはあっても失明に至ることは阻止しうるが、更に病状が進行して瘢痕期(右分類による四、五期)に至ると治療方法がないことから、特に早期発見、早期治療が何よりも肝要である。したがって、一般に医師としては未熟児を保育器へ収容し酸素を供給する場合においては、本症発生を早期に発見し早期治療を施すため、自ら定期的に未熟児の眼底検査を行うか、または眼科医にこれを依頼して相互の密接な協力連携のもとに未熟児の眼科的管理を行うべき義務がある。
(2) 以上のような眼科的管理の必要性は、本件事故当時、未熟児保育にあたる医師には一般に認識されていた。すなわち、かかる眼科的管理の必要性は、すでに昭和三〇年に一般小児科医向けの雑誌に発表され、昭和三〇年代前半から後半にかけ一般小児科医、眼科医、産婦人科医を対象とする雑誌、著書に多くみられ、昭和四〇年代に入ると、国立小児病院眼科部長植村恭夫医師(以下、植村医師という)の精力的な活動もあって、この種の文献が飛躍的に増加し、本件事故当時ころまで公刊された文献は、植村医師その他により小児科医向けのものとして別表(二)(6、8、9、17を除く)、眼科医向けのものとして別表(三)そのほか多数にのぼり、ことに一般の新聞や素人向けの医学書にまでこのことが指摘されるに至っていた。このようななかで、多くの病院で未熟児の眼科的管理が体系的に行われ、例えば、九州大学附属病院小児科(昭和三六年から実施、以下病院名下のかっこ内の年月は実施日を示す)、国立小児病院(同四〇年一一月)、天理よろず相談所病院(以下、天理病院という、同四一年八月)、市立岡谷病院・信州大学附属病院(同四一年夏)、関西医大附属病院(同四二年三月)、神戸市立中央病院(同四二年春)等では定期的に未熟児の眼底検査を実施し、大阪市立小児保健センター(同四一年)でも眼科的管理をしており、その他眼科的管理の必要性を説く各文献の著者の属する大学や病院でも同様の眼底検査を行っていたとみられる。
以上の点からみて、昭和四二年八月ないし一〇月当時、未熟児室を設けて未熟児管理を行っている病院の小児科医、眼科医の間では、一般に、前示のような眼科的管理を行う必要のあることを知悉していたものといえるのである。
(3) 控訴人武の成育状況は前記のとおりであり、保育器収容当初はともかく、その後は眼底検査に耐えうる状態になっていた。仮にしからずとするも、昭和四二年一〇月一一日保育器より出た時点においては眼底検査をなしえたことは明らかである。したがって右いずれかの時期に同控訴人の眼底検査が行われていたならば、本症発生が早期に発見され、適当な酸素供給を保つとともにACTH、副腎皮質ホルモン剤投与等の治療法により失明から救われたと考えられる。
(4) (阿部医師の過失)
被控訴人病院では、昭和三五年以降未熟児室を設け未熟児の集中的な管理を行い、市中の開業医よりも高度の未熟児保育を行っていたので、控訴人武は被控訴人病院に入院したのである。
阿部医師は、被控訴人病院の未熟児室を担当する医師として、一般の小児科医より以上に、未熟児に関する最新の文献に常に注意を払い、殊に失明等未熟児に重大な障害を及ぼすおそれのある事態におかれたときは、最大限の注意を払い、文献等によって得た知識を直ちに治療行為に反映させるべき注意義務―眼科的管理に即して言えば、本症の早期発見、早期治療の為に未熟児に対する眼科的管理が必要なことを認識し、その必要な症例に対してはそれを実施すべき注意義務―を負っていたものである。
ところが、同医師は、本件当時、本症の早期発見、早期治療の為には眼科的管理が不可欠とされていることに関する知識を全く欠いており、その為に控訴人武に対する眼科的管理(自ら眼底検査を実施し、あるいは眼科医に受診させる)を全く実施しなかったものである。
なお、仮りに阿部医師が眼科的管理に関する知識をもっていなかったことについて過失がなかったとしても、控訴人和子の母宮武政子は、同医師に対し、控訴人武がまだ哺育器に収容されている時点で、本症に関する新聞記事を告げて同控訴人の失明の心配を訴えていたのであるから、同医師としては、右宮武の言葉に耳を傾けて、本症に関する最新の文献に眼を通すべきであった。ところが、同医師は、右宮武の言に対しても、漫然と「大丈夫である」旨答えるのみで、文献の再検討すらおこなわず、その結果控訴人武に対する眼科的管理を全く行わず、そのため同控訴人を失明させるに至った。
(5) (被控訴人病院の眼科医の過失)
被控訴人病院では、前記のとおり小児科の未熟児室を昭和三五年頃から設置してその保育にあたってきたのであるが、かかる病院に勤務する眼科医は、小児科医と協力して、未熟児に対し本症の如き重大な事態が生じないように眼科的管理を行うべき注意義務がある。殊に、昭和四一・二年当時においては、前述のように、眼科関係の多数の文献に、本症の重大性と眼科的管理の必要性が繰り返し強調されていたのであるから、未熟児室を有する総合病院の眼科医としては、未熟児室を直接管理する小児科医に対し、本症の重大性と眼科的管理の必要性を啓発し、未熟児に対する眼科的管理を行うべき注意義務を負っていたものである。
ところが被控訴人病院の眼科医たる尾崎医師は、前記各文献中の植村医師の論文の一部分は読んでいながら、積極的に未熟児室を管理する小児科医を啓発することなく、また自ら眼科的管理を積極的に実施しようともせず、従前の診療体制を漫然と維持し、その結果、控訴人武に対し全く眼科的管理を施さなかったものであって、同医師にも本件眼科的管理の懈怠について過失があったものといわざるを得ない。
二 被控訴人
1 請求原因に対する認否の一部(原判決一四枚目表九行目から同一五枚目表一二行目まで)を次のとおり改める。
「請求原因3(一)(2)のうち、控訴人ら主張の注意義務が本件医療事故当時小児科医に充分認識されていたとの点は否認し、別表(一)等の文献が控訴人ら主張の趣旨であることは争う。
同3(一)(3)のうち、酸素供給期間と流量は認め、右酸素供給と失明との因果関係は否認し、酸素供給に関する注意義務を怠っていたとの点は否認する。
請求原因3(二)の全身管理の懈怠があるとの主張は否認する。
同3(三)(1)のうち控訴人ら主張の治療方法は否認し、注意義務は争う。
同3(三)(2)のうち植村医師が控訴人ら主張の文献で眼底検査の必要性を唱えていたこと、国立小児病院、天理病院、関西医科大学病院で控訴人ら主張のころから本症に対処するため未熟児の眼底検査を実施していたことは認め、その余の事実は否認する。
同3(三)(3)(4)(5)のうち阿部医師ないし被控訴人病院医師が眼科的管理を行わなかったことは認めるが、同医師らの過失は争う。」
2 被控訴人の反論として、次のとおり補足する。
(1) 未熟児に対する酸素投与の適応
昭和四二年八月ないし九月当時、未熟児に対する酸素投与の適応については、チアノーゼのような臨床的徴候を目じるしにする立場もあったことは事実であるが、それが当時の実地医療における水準的知識であったと考えるのは誤りである。このことは、当時の未熟児保育の水準的知識を示す多くの成書の記載を見れば明らかなところである。
新生児の呼吸不全は、死もしくは脳障害の後遺につながる重大なものであるが、未熟児は肺換気の点に関して不利なハンディキャップを負っている。すなわち、満期産によって出生した新生児の場合には、胎生期に肺の発育の全過程を経ており、出生時の第一呼吸後、早期に肺胞が拡張し、呼吸可能の状態となるのであるが、未熟児の場合は、胎生期における肺の発育が不完全であるため、出生後、肺拡張不全をおこし易く、臨床的には特発性呼吸障害(呼吸窮迫症候群)を示すことが多い。未熟児を保育器に収容し、酸素を投与することによって、その呼吸を助けることが一般に必要とされるのはこのためである。
前記成書のうちには、ルーチンな酸素投与が必要であるとするものがあり、これは、未熟児はその生理的機構が特異であるため、無酸素症が惹起する障害の危険度が高く、その潜在的危険から未熟児の生命と脳を守るためには、より周到な配慮が必要とされるという考え方をとっているのであって、当時の水準的な考え方であった。
また、新生児にみられる特発性呼吸障害の原因は明らかでないとされているが、その予防法として、高温環境に収容し酸素を供給することが有効であるという意見もある。
阿部医師は、未熟児の全身状態をできるだけ良好な状態に保つことによって、重大な障害、たとえば特発性呼吸障害その他の呼吸障害による死亡や、無酸素症による脳性麻痺の後遺等を防止する目的で酸素を供給する必要があるとの見解にたっていたのであって、特発性呼吸障害の予防のためにのみ酸素を投与したものではないが、右に述べたような見解は、定評のある成書に記載されているのである。したがって、酸素投与の適応は全身チアノーゼ、呼吸困難、低酸素症であり、適応がなくなれば速やかに中止しなければならないというような考え方が実地医療の水準的知識であったといいうる根拠はない。
(2) 保育器内の酸素濃度について
昭和四二年八月ないし九月当時、実地医療の水準的知識としては、保育器内の酸素濃度を四〇パーセント以下に保っていれば、本症発生の危険はないと考えられていたのであるから、未熟児に酸素を供給する場合、本症を発生せしめないためには、保育器内の酸素濃度が四〇パーセントをこえないように注意することが必要であり、そのように注意しておれば充分であったということになる。そして阿部医師は、右の水準的知識の下において安全と考えられていた濃度よりもはるかに低い二三ないし二五パーセントの環境酸素濃度下で控訴人武を保育していたという事実を看過してはならない。この事実は、阿部医師が漫然と当時の水準的知識に従っていたものではなく、控訴人武の症状に必要かつ充分と考えられる酸素濃度を選択していたことを意味するものであるし、また、症状が好転しかつ安定した段階では酸素供給量を一たん減少した上で供給中止の措置をとっているのである。このような阿部医師の措置が、当時の小児科実地医療の水準的知識に照らして、なんら医師としてつくすべき注意を欠いたものでなかったことは明らかである。
(3) 控訴人武の全身管理ないし保育環境について
被控訴人病院においては、当時の未熟児栄養の水準的知識に基づき栄養を与えており、控訴人武を含めこの栄養法によって保育された末熟児中に、いまだかって栄養状態の不良をきたし、その後の発育に悪影響が生じた者はない。未熟児に対する栄養方法は画一的なものではなく個々の状態に応じて定めるべきであり、未熟児の体重増加については、控訴人らのいうホルトの曲線と一致しない臨床例が少なからず報告されている。がんらい未熟児の理想的な体重増加がどのようなものであるかは、古くかつ新しい問題であるが、一般的には過剰栄養は過少栄養よりも危険であることは強く指摘されているのであって、被控訴人病院の控訴人武に対する栄養方法に誤りはない。
また、保育環境については、体重一二〇〇ないし二〇〇〇グラムの場合には、保育器の温度三〇ないし三二度、湿度六〇ないし七〇パーセントというのが当時の標準的な保育環境とされていたが、控訴人武については、この標準的な保育環境が維持されていた。そして、低体温は未熟児の特徴であるが、その体温を早期に成熟児並みに引き上げようとすることは不必要であるのみでなく望ましからざることとされていたのである。したがって、阿部医師が、控訴人武の低体温は警戒すべき現象であると考えながら、全身状態を勘案しつつ、発育に伴って体温が上昇することを期待していたこと自体は、当時の医療の水準的知識に反するものではない。
(4) 眼科的管理について
本症の予防法としての眼科的検査について、未熟児の眼科的管理の必要性を主唱してきた植村医師は、昭和四七年五月に発表した論文で、「最近の研究によって、検眼鏡的検査は、酸素療法の安全なガイド・ラインとはならないことが明らかにされ、眼科医は、本症の予防に関しては寄与できないこととなった」と述べ、同四六年八月の供述でも、本症の知識ないし眼底検査の普及度は、昭和四二年当時においては啓蒙的段階にとどまっていたとしている。
なお、今日においては、本症はその発生機序にまでわたって、多くの研究成果の集積を見ており、その発生の原因を一元的に酸素に求めることはできないとされ、本件当時よりは遙かに進んだ研究成果の下では、酸素―未熟児網膜症―医師の過失という性急な図式の修正が求められて来ているのであって、今日からふりかえって本件を見るならば、控訴人らの主張するところが、実地医療の水準ないしは限界を越えた要求であることはきわめて明白である。
第三証拠《省略》
理由
第一 本件医療事故発生に至る経過、控訴人武の失明原因、未熟児に対する酸素療法、酸素濃度、本症の治療法、眼底検査、定期的眼底検査の普及度及び医療行為における医師の注意義務の基準に関する当裁判所の認定判断は、後記説示で補足、訂正するはか原判決理由一、二、三12(一)の記載(原判決二二枚目表一行目から四三枚目表一一行目まで。但し、原判決二五枚目裏一二行目から二六枚目表三行目までの部分は削除する。)と同じであるから、これを引用する。
第二 そこで、被控訴人病院と同病院の阿部医師及び眼科医らの過失の有無につき検討する(後記の各書証はいずれも成立に争いがなく、また、かっこ内に年度を略し月日のみを示すのは昭和四二年度のそれを指す)。
一 酸素療法について
1 酸素濃度と供給期間
(1) 昭和四二年当時、未熟児保育に携わる医師の間では、本症の予防のため、未熟児に対する酸素の供給の量及び期間を必要最少限度にとどめること、酸素濃度は原則として四〇パーセントを超えないこと、酸素供給の中止は、漸減しつつ徐々に行うべきことが定説になっていたことはさきに認定した事実に甲第七号証を総合してこれを認めることができる。
(2) しかし、昭和四二年当時、医学界及び未熟児を扱う臨床医の間では、未熟児に対する酸素投与の適応ないし期間について、必ずしも統一された見解はなかった。すなわち、昭和四三・四四年ころまでに発行されたものを含む文献から推認するのに、昭和四二年当時、未熟児にチアノーゼや呼吸障害の臨床的徴候がある場合に酸素供給の必要があることについては異論をみないが、これらの徴候がないときあるいはその徴候が消失したときは、酸素供給の必要はないとする説と、これらの徴候がなく或いはその微候が消失したときでも生下時体重を含む全身状態によっては酸素供給を行うとする説があった。これについて、一般小児科医が容易に見ることができたと推認される代表的文献によると、次のとおりである。
(ア) 「臨床小児科全書第一巻」、「現代小児科学大系第二巻」、「未熟児の保育」は、いずれもチアノーゼや呼吸障害のあるときにのみ酸素を供給すべきであるとし、「日本小児科全書第五編」は、同様の見解のもとにチアノーゼが消失し呼吸困難が解消されたならば酸素の供給を中止すべきであるとしている。また、「臨床小児科全書第三巻」は、呼吸困難が除かれたら直ちに酸素濃度を漸減しその供給を止めるよう努力する必要があるとし、前記甲第八七号証では、チアノーゼが消失すれば速やかに酸素濃度を減じチアノーゼが発現しない最低限の酸素供給を心掛けるべきであろう、としている。
(イ) 「蒲生勉夫著小児科学」、「栗山重信監修小児科学」、「詫摩武人著小児科学」は、呼吸障害がなくとも生下時体量の低い未熟児には酸素供給を行うべきであるとしている。また、「高津忠夫監修小児科治療指針改訂六版」は、「チアノーゼや呼吸困難を示さない未熟児にすべて酸素を供給するか否かについては議論がある。出生後暫くの期間における未熟児の血液酸素飽和度は低値を示し、また肺の毛細管網の発達が不充分なために、酸素の攝取が不良であることが予想され、一度無酸素症に陥れば、無酸素脳傷害や無酸素性出血を起こす可能性が考えられるのでルーチンに酸素供給を行うことがあるが、この場合は、濃度は三〇パーセント以下にとどめる。酸素供給の期間はなるべく短い方がよい」としている(なお、昭和三三年発行の同書の旧版とみられる甲第一三八号証には、生下時体重に応じた酸素供給期間を例示し、一五〇一グラムないし二〇〇〇グラムの未熟児に対する供給期間は三ないし七日としていたが、改訂六版にはその旨の記載は除かれている)。
(ウ) 酸素供給期間に関する以上の各見解は、いずれもこれを必要最少限にとどむべきこととするが、昭和三三年発行の前示甲第一三八号証のように具体的に供給期間についての目安となる日数、時間を示すものは、同号証のほかには当時まで殆んど見当らないし、今日においても同様のようである。そして、以上の各見解のうち、チアノーゼや呼吸困難が解消されたならば直ちに酸素供給を中止せよという見解は、臨床的徴候のみによってその中止の時期を定めうるが、これらの徴候が消失したならば濃度を漸減しつつ中止せよと言い、あるいはチアノーゼが発現しない限度で酸素供給をせよと言い、さらに低体重児には酸素供給をすべしという見解のもとでは、その中止の基準が必ずしも明らかでない。したがって、同じく制限された酸素療法を行う場合でも、昭和四二年当時において、後者の見解にしたがうときには、必要最少限という期間の基準の設定につき、臨床医の間に寛厳の差の生じていたことも避け難いことであったと推認される。
(3) そして、その後の酸素療法と本症との関連についての関心の深まりと、本症の治療方法の発見などによって、今日では、昭和四二年当時に比しより厳しくかつ合理的な方法が選ばれるに至っていることは後述のとおりである。
2 酸素療法と本症との関係
(1) 昭和四二年当時、わが国の医学界及び未熟児保育に携わる医師の間には、前示1の制限にしたがった酸素療法を行った場合にも、なお本症の発生する危険のあることが充分認識されるに至っておらず、却って右療法にしたがう限り安全であるとする見解もあった。このことは、当時まであるいはその後に発行された文献その他によって認められる次の諸点から推認される。
(ア) 前示1(2)掲記の文献を代表とする酸素療法に関する論説は、本症の予防を目的とするものであるが、その療法を行ってもなおかつ本症の発生のありうることをうかがわせる説明は極めて乏しい。却って、酸素供給について比較的厳しい見解をとる「未熟児の保育」の著者馬場一雄は、同書で「酸素濃度を四〇パーセント以下にとどめ、極端に長期にわたらぬように注意すれば、酸素治療は大した危険を伴なうものではないと考える。むしろ、失明の危険をおそれて酸素の投与を制限したために、貴重な人命を失うことをこそ警戒すべきであると思う」と述べている。
さらに、昭和四三年または同四五年に発行された雑誌である「日本小児科学会雑誌七二巻一〇号」、「眼科一〇巻九号」、「臨眼二四巻一一号」の論説には、従来の医学界において、酸素濃度三〇ないし四〇パーセント以下が安全限界あるいは安全域であると解されていた趣旨の記載がある。
(イ) 前示認定のとおり、植村医師は、昭和四〇年ころから同四二年にかけて、酸素療法により本症の発生することのある危険を警告し、小児科医、眼科医向けの雑誌である《証拠省略》等にその旨の論説を掲げた。また、わが国における酸素療法と本症との関連についての臨床報告等が後記三2(1)のとおり乏しいうえ、以下に述べる事情もあって、本症の危険性についてわが国の医学界の理解を得るに至っていなかった。
(ウ) 以上のように、制限された酸素療法によっても本症発生の危険のあることの認識が、昭和四二年当時、まだわが国の医学界及び臨床医の間に定着するに至らなかったのは、《証拠省略》を総合すると、以下の事情によるものと解される。
米国では、前示のとおり、未熟児に高濃度の酸素を供給していたとき本症が爆発的に発生したため、疫学的研究と動物実験による基礎的研究を行った結果、本症は、過剰な酸素供給と関連があることが証明され、一九五五年(昭和三〇年)に米国眼耳鼻科学会が、未熟児に対する酸素供給は濃度四〇パーセント以下とし、できるだけ制限すべきであると勧告し、その制限にしたがった結果、本症の発生率が劇的に減少し、一九五七年(昭和三二年)ころには本症の流行的発生が事実上終り、その後は、それでもなお発生する本症の原因は先天性によるものとする見解もあって、本症は、過去の疾患であるとして、関心が急に薄れてきた。そして、一九六〇年(昭和三五年)には、医学界で、酸素の供給制限により呼吸障害症候群による死亡率が酸素の供給制限を行わなかったときに比べ増加している旨の報告がされたのを契機として、酸素供給の制限を緩和する動きが生じ、この動きに応じ、学会では一九六七年(昭和四二年)ころ以降、本症の発生を予防するため酸素療法の基準の設定と本症発生機序の基礎的研究の必要性及び定期的眼底検査の必要性が再び論議されるに至っていた。
わが国では、米国で本症が多発した時には未熟児保育管理が普及しておらず、米国で酸素供給の制限が行われ本症の発生が急減して以後、次第に酸素療法による未熟児保育が発達してきたこと、戦後は米国の医療方法に学ぶところが多かったことなどから、昭和四二年当時は、植村医師ら一部のもののほか、医学界では本症についての関心が極めて薄く、米国におけると同様に本症は過去の疾患であるとして顧みられない傾向があった。そして、当時まで、わが国では、本症に関する臨床報告も乏しかったこともあって、本症の予防のための酸素療法の制限に関するわが国における前示見解も、米国の前示酸素療法の制限に関する勧告やこれを緩和すべしとする提言が交錯して取り入れられていることがうかがわれる。
(2) ところで、本症と酸素療法との関係について、本件口頭弁論終結当時(昭和五五年四月一七日)においても、本症の発生機序が解明されていないため、その定説はないが、わが国における現在の有力な見解は、《証拠省略》を総合すると、次のとおりであることが認められる。
すなわち、本症は網膜の未熟性に素因があり、母体内あるいは酸素療法を行わないときでも僅かながら発生する。しかし酸素療法が本症の悪化を助ける最大の誘因であるから、酸素の供給は最低限に抑制すべきであるが、同時に、酸素の供給制限により死亡率を高めないため、さらには、脳性麻痺のような低酸素に起因すると思われる重大な全身障害をできるだけ残さないために必要にして充分な量の酸素を供給するのが望ましく、あわせて、本症の早期発見と治療のために、定期的な眼底検査を行うべきである。
本症は、未熟児のうち、生下時体量の劣るもの及び在胎期間の短いものほど発生し易く、ことに生下時体重一六〇〇グラム以下または在胎三二週未満のものに多発しており、これらの未熟児には酸素療法を必要とする症状が多いため酸素供給の期間も長期にわたる傾向がある。そして酸素供給の期間が長期にわたった場合でも発症しないことがあり、わが国では、最近生下時体重二〇〇〇グラム以下の未熟児の約三パーセントに治療を要する本症が発生していると報告されており、酸素供給の期間が長期であったものほど本症の発生が多いとする臨床例が意見が強い。しかし、酸素供給を一日、または三日、四日以下にとどめた場合でも本症が発生する事例もあり、酸素供給日数の長短と本症の発生、悪化には因果関係がないとする見解もあるが、以上いずれの論者も、酸素供給の適応は、チアノーゼや呼吸障害の症状を示すときであり、酸素供給の期間は最少限にとどめるべきであるとしている。
また、酸素濃度について、現在では、昭和四二年当時におけるような基準はなく、酸素供給を中止するときは徐々にその濃度を減少すべきであるとの前示方法は、本症の予防のために役立たないとして否定され、酸素供給を必要とするときは、症状に応じて四〇パーセント以上の高濃度の酸素を短時間に間歇的に与える方法も行なわれている。
3 阿部医師の行った酸素療法
(1) 控訴人武の出生後の状態及び同控訴人に対し酸素療法を行った経緯は前示の原判決理由一記載のとおりであり、右事実に《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められる。
(ア) 阿部医師は、昭和三二年岐阜縣立医科大学を卒業し、同三四年医師免許をうけ直ちに被控訴人病院に勤務し、同三五年から被控訴人病院未熟児室の小児科医として昭和四二年八月当時までに一五〇名余の未熟児保育に当ってきた。
阿部医師は、本件当時、未熟児に対する高濃度の酸素供給は本症発生の危険を招くので、その予防のため、酸素供給はできるだけ制限し、濃度は四〇パーセント以下とし、その供給を中止するときは漸減しつつ徐々に行うべきであるとの認識のもとに、一般に未熟児に対する酸素供給にあたり、その濃度の最高は概ね二七パーセントにとどめ、個体差に応じ二五パーセントあるいは二三パーセントとしていた。すなわち、未熟児に対しては、その生命の保持及び脳障害の防止を目的として、チアノーゼ、呼吸障害または呼吸困難などの臨床的徴候を示すもののほか、その予防のため、これらの徴候のないものも比較的生下時体重の低いものに出生直後から酸素供給を開始し、以上の臨床的徴候を示していたものにつきその徴候が解消されたとき、あるいは生下時体重が比較的低かったものにつき一たん下降した体重が生下時体重に回復するなど全身状態が好転したときは、濃度を減じたうえ、個々の全身状態に応じさらに一定の期間酸素の供給を続けたのちこれを中止していた。
阿部医師は、当時まで、以上の方法で未熟児に酸素療法を行い、これによって過去本症が発生した事例を経験したことがなかったこと及び医学書等から得た知識により、酸素濃度四〇パーセント以下にとどめた右の酸素療法にしたがう限り、本症の発生を招く危険はなく安全であると考えていたので、控訴人武に対しても以上と同じ方針のもとに酸素の供給を行った。
(イ) 阿部医師が控訴人武に行った措置の概要は次のとおりである。
控訴人武は生後一日目(八月一七日)保育器に収容され、生下時体重が比較的低く、チアノーゼが口唇部等に認められ、うめき声があって全身状態も悪く呼吸障害による生命の危険が予想されたので、阿部医師は、直ちに濃度二三ないし二五パーセントの酸素供給を始めた。チアノーゼは生後二一日目(九月六日)ころまで続けてみられたが、それ以後は全く消失した。呼吸数は未熟児の場合、通常生後三五日位で一分間四〇位に落ち着くが、控訴人武の場合には、生後四〇日(九月二五日)前後まで断続的に一分間五〇を超えあるいは三〇前後に下るなど乱れがあり呼吸状態が不良であった。体重は、生後一六日(九月一日)ころまでに生下時一六二〇グラムあったものが一二六〇グラムに落ちこみ、以後増加に向い生後四〇日目(九月二五日)に生下時体重を僅かに超える一七一〇グラムになった。一般状態は、生後二二日目(九月七日)まで不良、その後生後三九日目(九月二四日)までやゝ良、生後四〇日、四一日目は良、生後四二日目はやや良、その後生後五〇日目(一〇月五日)までは良、その後生後五五日目(一〇月一〇日)まではやや良となっている。阿部医師は、生後四一日目(九月二六日)に、同控訴人の体重が生下時のものを超えるまで増加してきたことや一般状態も好転したため、従来継続して供給してきた前示酸素の濃度を二二ないし二三パーセントに減じてさらにその供給を続け、生後四六日目(一〇月一日)ころから哺乳の状況も好転し体重が着実に増加し、呼吸困難の状態も薄れ一般状態もやや良の状態が持続するに至ったので、生後五六日目(一〇月一一日)の朝に酸素供給を中止して、同控訴人を保育器から出して新生児室に移し、生後七五日目(一〇月三〇日)に退院させた。
(2) 阿部医師は、未熟児として生れた控訴人武に対し、専らその生命の保持及び脳障害の防止を目的として、かつ、濃度四〇パーセント以下であれば本症の発生の危険はないものと考え、前示酸素療法を行ったものである。そして、酸素療法に関して医学的研究の深まってきた今日からみると、阿部医師の行った方法に批判の余地はありうるとしても、昭和四二年当時、本症の予防のため、酸素の供給は必要最少限にとどめ、濃度は原則として四〇パーセントを超えず、酸素供給の中止は徐々にこれを行うことが定説になっていたとはいえ、酸素投与の適応ないし期間につき、必ずしも統一されたものがなく、寛厳の差があったこと、濃度三〇ないし四〇パーセント以下で行う右の酸素療法を行うかぎり本症発生の危険はなく安全であるとする見解もあった前示1、2のとおりの医療の水準のもとでは、阿部医師が従来の経験をも加え、前示方法で酸素療法を行ったことが、医師として許される裁量の範囲を逸脱したものとはにわかに断定し難く、かつ、右療法のもとで本症の発生を予見しえなかったことにつき、同医師に過失があったということはできない。
二 全身管理について
1 控訴人らは、控訴人武に対する栄養・水分の補給が不十分であったため、その体重の増加が遅れ一般状態に悪影響を及ぼしたと主張する。
「石山俊夫ほか編集今日の治療指針」、「栗山重信監修小児科学」によると、控訴人らのいうホルトの曲線では、未熟児の生下時体重が一たん低下してもとに戻るまでの期間として、生下時体重一六二〇グラムの場合には約二週間との統計的数値があげられているが、控訴人武の場合約四〇日を要していること、《証拠省略》により認められる控訴人武に対する授乳量が、《証拠省略》に掲げられた標準値よりも少なかったことがうかがわれる。しかし、《証拠省略》を総合すると、体重増加に関してホルトの曲線に合致しない臨床報告もあり、未熟児については、その活力、合併症の有無などによって著るしい個体差があるので、一般的方法にとらわれず、未熟児の状態に応じた調整の必要があること、控訴人武に対する栄養、水分の投与も、前示の全身状態を勘案しつつ行なわれており、過去被控訴人病院で同様の方法で未熟児保育にあたってきており、その方法によって未熟児の成育は順調であったことからみても、同控訴人に対する栄養、水分の投与に誤りがあったものとは認め難い。
2 また、《証拠省略》を総合すると、控訴人武に対する前示低体温、黄疸についての措置、保育環境としての湿度、温度についての措置が誤っていたとは認められない。そして、原審における控訴人室澤昭、原審及び当審における控訴人室澤和子各本人尋問の結果によると、控訴人武は、生後二・三週間目ころ、一時的に、他の未熟児一名とともに同じ保育器内に入れられていたことがうかがわれるのであるが、このことが、控訴人武の全身状態に悪影響を与え、ひいては本症の発生、悪化に原因を与えたと認定できる証拠はない。
3 以上のとおりで、阿部医師ないし被控訴人病院において、控訴人武に対する全身管理に懈怠があったものとは認め難い。
三 眼科的管理について
1 最近における本症の治療方法は、前示認定の事実に前示一2(2)冒頭掲記の証拠を総合すると、次のとおりであることが認められる。
本症の治療の前提として、未熟児ことに酸素療法を行ったものに対しては、それが可能なかぎり早期から定期的な眼底検査を行い、本症の発生を認めた場合には、注意深くその推移を見守り、オーエンスの分類による活動期二期から三期への移行期を逃さずに光凝固又は冷凍凝固による物理療法を行うことが本症の治療方法としてその効果も適確でかつ安全であるとされている。物理療法を右時期に選ぶ理由は、物理療法を行った場合に、その後遺障害が絶無であるとは今日なお断定できない状況にあること、したがって、その危険を避けるためと右時期以前においては自然治癒をすることが多いためである。そして、物理療法によっても本症の治療効果がなかった例も僅かに報告されているが、この方法が今日では唯一の治療方法といわれており、昭和四二年当時に、本症の治療方法として有効とされていた副腎皮質ホルモン剤等の投与による薬物療法については、現在その効果を否定する見解が有力である。
2 しかし、昭和四二年当時、及びその後暫くの間、未熟児を扱う臨床医ないし病院の間では、一般に酸素療法を行った未熟児に眼底検査を実施するまでの水準に達していなかった。すなわち、前示認定の事実に《証拠省略》を総合すると、次のとおりであることが認められる。
(1) 前示認定のとおり、植村医師は、昭和四〇年から酸素療法を制限して行った場合にも本症の発生のあることを警告し、未熟児に対する定期的眼底検査をする必要のあることを力説していた。また、すでに昭和三〇年ころから同四二年ころにかけ、右以外にも、眼科、小児科医向けの雑誌、専門書のなかに未熟免に対する眼底検査に関する論説がみられるが、植村医師と同じ問題意識をもって眼科的管理の必要性を説くものは極めて乏しく、昭和四二年当時まで発行されたもののうち、わが国における酸素療法と本症との関係についての臨床報告も、順天堂大学眼科中島章らの「臨眼一四巻二号」、市立岡谷病院産婦人科木村好秀らの「産科と婦人科三四巻一二号」、鳥取大学医学部眼科教室松浦啓之の「眼科臨床医報六一巻八号」及び植村医師の「小児科六巻六号」など僅かしかなかった。
また、控訴人らがその名称をあげて指摘する各病院は、その主張のころから、酸素療法を行った未熟児に対する眼底検査ないし眼科的管理を行っていたが、昭和四二年当時までに、その臨床報告を雑誌に発表したのは、前示市立岡谷病院のもののみで、その余はすべて昭和四三年以後であった。
(2) そして、前示認定のように、昭和四二年当時、及びその後暫くの間、わが国の一般の医学界及び未熟児を扱う臨床医の間に、制限された酸素療法によっても本症発生の危険のあることの認識が定着するに至らず、却って、右療法にしたがう限り安全とする見解もあったこと、未熟児に対する眼底検査をして本症の発生、進行の所見を誤りなく診断するのは、一般の眼科医には困難であり、数十例の未熟児を診察したうえこれに習熟する必要があるところ、このような眼科医が極めて乏しかったことなどから、未熟児を扱う臨床医ないし病院において、酸素療法を行った未熟児に眼底検査ないし眼科的管理を実施するだけの医療の水準にはいまだ達していなかった。
そして、前示各病院では、すでに昭和四二年当時までに、未熟児に対する眼底検査ないし眼科的管理を実施していたのであるが、これらは、先進的医師を擁した限られた例であって、この問題についてわが国における先駆者ともいうべき植村医師の前示提言も昭和四二年当時においてはなお啓蒙的な段階にあったことは同医師自ら述べているところであること及び永田医師の前示物理療法も、昭和四二年に発見されてのち、医学界で一般に受け入れられたのは漸く昭和四五・六年ころであったことなど医学界ないし臨床医の間で治療、医療方法などが一般化するまでには一定の期間を必要とすることを考えると、前示各病院において眼科的管理が行われていたとしても、それが医療の水準であったものとは認め難い。
3 ところで、被控訴人病院において、控訴人武に対する眼底検査ないし眼科的管理を行わなかったことは当事者間に争いがなく、《証拠省略》を総合すると、昭和四二年当時、被控訴人病院における唯一の眼料医尾崎志朗は、従来未熟児の眼底検査を行った経験がなく、阿部医師も同様であり、被控訴人病院では当時まで未熟児の眼科的管理を行ったことはなかったこと、阿部医師は、前示のとおり、酸素濃度三〇パーセント以下で行った同控訴人に対する酸素療法によっては本症発生の危険はないものと考えていたので、同控訴人に対する眼底検査を尾崎医師又は他の眼科医に依頼するなどの措置をしなかった。
そして、前示2認定のように、昭和四二年当時及びその後暫くの間、わが国の医学界のみでなく実地診療にあたる臨床医の間には、制限された酸素療法を行った未熟児に本症発生の危険のあることの認識が乏しく、却って濃度四〇パーセント以下にとどめた右酸素療法を行うかぎり安全であるとする見解もあり、かつ本症を誤りなく診断することのできる眼科医が極めて少なかったことなどから、僅かな限られた先進的医師を擁する一部病院のほかは、眼科的管理を実施するに至るまでの医療の水準に達していなかった点に照らすと、阿部医師ないし被控訴人病院の尾崎医師において、控訴人武に対し眼科的管理を行わなかったこと、ひいては本症の発見及びその治療などの措置を行わなかったことにつき、過失があったものとはいえないというべきである。また、《証拠省略》を総合すると、同控訴人の母宮武政子は、米国などで酸素療法を行った未熟児のなかに失明した例のある旨の新聞記事のあることを知り、控訴人武の生後一〇日目ころ、阿部医師に対し、右記事のことを告げ、同控訴人の眼のこともよろしく頼む旨依頼したことが認められるが、このことも右過失の判断を左右するものとは解されない。
以上のとおりであって、前示各認定に反する甲第一二七号証の三は、前掲証拠に対比して採用できず、他に阿部医師、尾崎医師及び被控訴人病院において、控訴人武に対する医療行為につき、その作為又は不作為による過失があったと認めるに足る証拠はない。
第三 よって、控訴人らの本訴請求はその余の点を判断するまでもなく理由がなく、これと結論において同旨の原判決は結局相当であり、本件控訴は理由がないので失当としてこれを棄却すべく、民訴法九五条、八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 首藤武兵 裁判官 丹宗朝子 西田美昭)